「気品」ある-( ボーテック 汎用工作機械用ガンドリル 刃径8.5mm B110085390 ) B110-085390 vkpjb321645-工作機械

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~徒然なるままに日々の雑感を~

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 昨日、渋谷能楽堂にて狂言と能の鑑賞。野村万作・萬斎親子『宗論』、櫻間右陣『当麻』。いずれも昨今観た中で、よい舞台だった。

以下のコメントはただ周辺的な、そして些細なことを。

例えば『当麻』の中に「たづきも知らぬ山中に」という箇所がある。字面だけ追うと、つい「さんちゅう」と呼んでしまったが、地歌が「やまなか」と歌い上げるのを聴いて、確かに、音で理解していた昔の名残というか、日本語の特性からすれば、ここは訓読みがよいのだろうと、今さらながら得心した(真実は違うのかもしれないが)。

能ではかつてありし人物が霊となって登場することがよくある(というかほとんどか)。そのような舞台を見る上で欠かせないのが「照明」だ。
他の近年の映画出演作は「先生と迷い猫」「HERO」(ともに15)
しかし明治期の文明化の過程で、能舞台は欧米の文化(歌劇場)に倣って、室内空間へと閉じ込められた。問題は室内でどのような「照明」を行なうのかである。

アレクサンドル・ソクーロフ監督作の「太陽」(05)では昭和天皇を演じた 現代では、謡本を読む観客のために客席も適度な照明がある。これがまず第一に舞台への意識を遠のかせるのでよろしくない。

第2に舞台も照明が煌々となって陰ができないようになっている。これがまた能の物語世界への飛翔を阻害する大きな要因だ。

現代の薪能においても、照明は薪だけでなく、ライトの補助がつく。谷崎が『陰翳礼讃』で慨嘆したように、陰翳のある空間を嫌う聴衆の好みに合わせて、光り輝く!?舞台になっている。

無表情を能面とも言うが、実は豊かな表情を表わすのが能面だ。それが最も効果を発揮するのは火によるものであれなんであれ陰翳が付くときである。その魅力を現代の能舞台はひたすら奪ってしまっている。

むろん演者からすれば、そんなことは百も承知であると思われる。分かっていながら、いまだハリウッド映画のような陰翳をつけない舞台照明で事足れりとしているのであるから、問題ではないか。

古典芸能の魅力は汲めども汲めども尽きぬ泉のようなもので、それを活かすことをもっと考えるべき時ではないだろうか。

映画「ヤンヤン夏の思い出」(00)で海外映画に初出演を果たし 魅力を伝えるには、かえって古の方法に学ぶ、原点に返ることも重要である。

原点はどこに定めてもよい。各人各様の考えに基づいて、原点は様々であってよいはずだ。

ただ能は明らかに中世的なものである。中世のイメージもまたさまざまあろうが、近世の明るい文化と対比されて、陰翳がより際立った世界でもある。加藤唐九郎が言うような暗さ(黒樂茶碗がそうであるような)が中世には付き纏う。

その陰陽というか彼岸と此岸の明白なる対比と相互浸透とに幽玄なる世界が生まれ出るのであれば、能舞台には「陰」がなくてはならない。照明によるのであれ、なんであれ、陰が重要である。

ソニーの世界遺産番組のCMでは、薪だけの能が映し出された。その折の能面の表情の艶やかなる、陰翳ある姿。あれをこそ生で観たいものだ。

映画「ヤンヤン夏の思い出」(00)で海外映画に初出演を果たし

有名ブロガーの池田信夫氏の書いた0480-62-1111(内線111・114・118)をはじめ、最近のツイッターでも、彼は反原発・脱原発の動きはカルトだとして批判している。

自動車と航空機のどちらが安全かといった有名な話については、リスク評価の在り方でどちらが安全かどうかは決まる(一般的には自動車の方が危険だが、こちらを参照)。

池田氏の上の論考に対しては、こちらの方の批判でほぼ尽くされているように思われる。

リスクに対して便益が上回るというのが原発正当化の根拠である。しかし原発の便益なるものが、よりリスクの低いもので代替可能である点で、これはなんら正当性をもつものではない。

正当性があると思っているのは、現在のエネルギー情況を前提にして、それを変えないというところから出発しているからだ。

また原発に関しては、軍事的な原子力利用と関連して、それが国際政治におけるヘゲモニーを得るための有効なカードであるがゆえに原発を手放すべきではないという議論もあるが、これは本末転倒だろう。

エネルギー政策は政治判断、単にやる気の問題に過ぎない。そのやる気がどの方向に向かうかは理念の問題である。理念なき政治にはかじ取りはできない。原発推進を行なってきた自民党にもその気概はないように見える。。。

また原発と自動車のリスクの比較については、0480-62-1111(内線271・272)も参考になる。

そもそも原発の場合は、保険が適用されないことからして(もちろん原発の保険はあるが、そのカバーされる額は微々たるものでないに等しい)、リスクではなく不確実性の領域に入る問題であり、その意味で、リスク評価がそもそもできない代物でもあるとも言える。

リスクがあるかどうか、安全かどうかを死者を規準にして語る傾向は浅薄である。村上陽一郎氏が以前、原発で死者は出ていないのであり、安全なんだと力説しておられたことに驚愕した覚えがあるが、放射線に関しては、原発周辺への人的環境的影響を考慮に入れないといけないだろう。

しかも「ただちに健康に影響はない」と3月以降繰り返されている文言に表されているように、長期間の低線量被曝の実態は、敢えてかどうかわからないが、マイナーな研究者以外、手を出していない。

放射線治療の線量を持ち出して、現在の状況は安全だという主張も、放射線による人体への影響の点で、まったく異なるレベルの問題であるから、的外れである。

東大SPHのフォーラムでも指摘されていたが、放射線の人体への影響については閾値があるかないかをめぐって対立した立場がある。どこまでの被曝ならば安全だということが言えないという立場と、どこまでの被曝ならば安全だという立場との対立である。

こうした二つの立場があることからして、放射線の影響というのは未知数ともいえる部分がいまだにあるということであり、そうすると、安全基準というものは、もっと慎重に定められる必要がある(なお、上のフォーラムでは、日本が参考にできることもあるのではないでしょうかこちらでの発言が重い問題提起をしている)。

健康被害(一生、その傷を負って生きていかざるをえないような状況)が起きてから、規準を定めた時には分かりませんでしたで済む問題ではない。

正直、考えがまとまらないが、備忘録として。。。
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